2023.12.21


 『杉口秀樹』の名前には馴染みがない、というのが一般的な意見かも知れない。
しかし、名前は知らなくとも、多くの人は間違いなく彼の姿をテレビや映画で目にしてきている。
『仮面ライダーウィザード』のスーツアクター、と聞けばどうだろうか?
日本全国に、熱狂した人が大勢いる筈だ。


日本のスタントパフォーマーの中で杉口秀樹の名を知らぬ者はいない。


その人間とは思えない驚異的な身体能力は、見る者全員を圧倒する。自由自在に中空に舞い、高度な技をいとも鮮やかに決めて魅せる。

まるで、杉口独りだけが、重力を忘れた世界線からやって来たようだ。軽々と舞ったかと思えば、ビル7階相当の高さから3回転しながらのハイフォールをやってのけるなど、超が付く危険なスタントにも挑む、命知らずな一面も持つプロフェッショナルな人間だ。そうやって国内外問わず幅広く活躍してきた杉口が、2020年に会社を立ち上げた。


それが、『株式会社 MOTION ACTOR』だ。


実際の人物や物の動きをデジタル的に記録する技術を“モーションキャプチャー”といい、
そのモーションキャプチャーの現場で演じる(動く)者を“モーションアクター”と呼ぶ。
杉口はなぜ、『株式会社MOTION ACTOR』を設立したのか。
彼の視線の先には、どんなビジョンがあるのか。
今回のロングインタビューを通して、杉口秀樹の思考を解体してゆきたいと思う。


―――既に幼少期には、体操など特別な運動は始めていたのでしょうか。


自発的に、ではないのですが、「何か特技があったほうが良いだろう」という父親の考えで、幼少期から中学1年までは、半ば強制的に地元徳島で器械体操教室には通っていたんです。そんな中学2年生の時に、人気アニメの『忍たま乱太郎』が放送開始になり、僕も夢中になって見ていました。「忍者の動き、技とかって面白い!!」って。

そこから原作のコミックに出て来る忍者の修行法や、武器なんかにどんどん惹かれていって……ご想像の通り、真似してやり始めたんです(笑)。
そして身体的な技を習得するために、日本のアクション映画だけに留まらず、香港映画なんかも見始めました。当時はまだVHSテープの時代でしたが、スロー再生で何度も何度も繰り返し見て、頭の中に動きのイメージが定着したところで、砂浜や芝生でひたすら練習をする。そんな生活が今の仕事に繋がる根源になっているのかも知れません(笑)。


実は中学3年の時に、僕は転校を経験しているんです。この転校先の風紀が悪くて(苦笑)!元来僕はコミュニケーションが得意な方ではないので、学校に馴染めないその辛さを忘れて自らを鼓舞するためにも、練習に夢中になっていたところもありましたね。練習には没頭できたし、少しずつ技が出来るようになるその過程が、すごく楽しかったんです。

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―――昔から、自分の身体能力の高さには気付いていたんでしょうか?


全くです(苦笑)!徒競走でも一番遅かったし、器械体操教室でも後から入って来た人たちにことごとく抜かれていましたから(苦笑)。

 


―――高校3年までの18年間を地元徳島で過ごしたわけですが、高校時代も何処にも所属せずに自分で練習し続ける日々だったのでしょうか?


高校時代、陸上部に所属して長距離走を選択していました。でも、真面目に校外練習に出掛けたと見せかけて、近くの公園で裏陸上部と称して、他の陸上部員も巻き込んでアクロバットの練習をしてましたね(笑)。


―――では、高校卒業を機にいよいよスタントマンの道を考えたわけですね。


自分の中でもそういった希望は芽生えていました。しかし、当時は今みたいな情報は全くないし、親を説得できる状況でもなかった。なので、家業を継ぐ予定で電気工学を専攻して九州にある大学には行かせて貰ったんですけど……実は、僕がその大学を選んだのには別の理由もありまして。その大学にはテコンドー部があったし、時を同じくして、テコンドーのオリンピック強化選手も九州・熊本にいたんです。「4年間で更に強くなってやろう!」そういう意気込みでの大学進学でした(笑)。

 


―――電気工学部の話は何処へ消えたのでしょうか(笑)。


大学在学中は、スタントマンを目指すか家業を継ぐか、僕の心は正直半々で揺らいでいました。そんな大学3年の時に、福岡に『倉田アクションクラブ』の支部が出来るという噂が流れて来たんです。例え受かっても通えるわけではありませんでしたが、自分の実力が実際に通用するのか、感触を確かめたくてオーディションだけ受けさせて貰ってるんです。そのオーディション会場で周りを見て、「これは僕にだってチャンスはあるかも」と、スタントマンへの道が現実味を帯びてきたんです。
そして大学4年の時に、就職先の内定も決めた上で「やりたいことに挑戦する時間を3年間下さい」と両親を説得して、本命の『JAE(ジャパンアクションエンタープライズ/旧ジャパンアクションクラブ)』のオーディションに受かり上京。晴れてJAEの33期生として、スタントマンへの道を歩み始めました。
でも、JAEに入った時点では、自分が将来どうなりたいとか、そんな明るい先のことは全く考えられなかったですね。3年という時間の中で、“死んでもいい”覚悟で挑んでましたから。

 

 


――JAE時代の強烈に印象的な出来事があれば教えて下さい。


最近では高所からの落っこちにもワイヤーを使うことが増え、スタントマンの練習の機会自体が減ってきているようなのですが、僕がJAEに居た頃には、実際に高所からの落っこちの練習があったんです。1年目は5階(約18メートル)からしか落ちれないのですが、2年目からは7階(約24メートル)からの落っこちが許されます。当然ですが、かなりの危険を伴う練習です。僕は最上階から、まだ誰も挑戦したことのなかった“三回転をしながらの落っこち”に挑戦しようと心に決めていて、その決意を前日コーチの方にお伝えしたんですが……危険だからと、制されました。コーチの立場を考えれば、当然の返答ですよね、僕たちの命を預かってるようなものですから。なのに僕は、いざ飛ぶ時になって「三回転お願いします!」と前日のコーチの意見を聞かずに飛び降りました。

後に講師の方が言ってたんですが、「飛ぶ直前にストップをかけて覚悟を揺るがせてしまったら、余計大事故に繋がってしまう」との判断で、敢えて止めず、そのまま飛ばせてくれたそうです。その代わりいつでも救急車を呼ぶ覚悟をコーチ自身も決めて、携帯電話のボタンに手をかけた状態で見守ってくれていたと。
結果、その前人未到の飛び降りは大成功だったのですが、それはコーチが大き過ぎるリスクを覚悟の上、無言で僕の背中を押してくれたから成し得た技なんです。スタントマンという命の危険と隣り合わせの職業を選んだ以上、不幸な事故は起こり得えます。実はそれって誰の責任でもないんです。「危険なことを安全に行う」のがプロのスタントマンだとしたら、その危険を回避するための練習が絶対的に必要なんです。そんな養成過程で、重責を担うポジションに立ってくれるコーチの存在があったからこそ、僕も挑戦し、前に進めたと言えるんです。


――それはスタントマンと指導者の深い信頼関係がうかがえるエピソードですね!


その技も、当時まだ誰もやったことなかったものでしたし、やらせてくれた指導者には本当に感謝してますね。その時の映像は、僕が辞めたあとも5~6年JAEで使われていたそうですし、その技と挑戦が話題となり、事実、その後の僕の仕事にも直接的に繋がっていきました。


養成部時代から指導してくれたコーチたちは今でも本当に大好きですね!仲間でしょっちゅう話しをするんですが、指導者ってめちゃくちゃ怖く見えるんですよ(苦笑)!その落っこちをした時のコーチも怖い存在ではあったのですが、言い換えれば「怪我をしたら俺が責任を取る」というリスクと覚悟のもと背中を押してくれる存在っていうのは、すごく有難いし、格好いいな!!って、時が経って殊更感じます。僕も誰かの背中を押せる存在になりたいなと、今は強く思いますね。


特に、ゴジラやブルーマスクにも入っていた6期の喜多川務さんという大先輩との出逢いには感謝してますね。養成部に喜多川さんが講師の中国武術の授業があったからこそ、僕は中国武術が好きになったし、人柄や生き方、考え方までもがめちゃくちゃ大好きで、べったり付いてました(笑)。実はこの頃、人生初のモーションキャプチャーも『戦国無双』という作品で体験しています。その後、喜多川さんと一緒にモーションキャプチャーの現場に参加した時に仕事の作法ふくめ学んだことが本当に多くて……それでモーションキャプチャーの仕事もこの時既に大好きになっていました。


―――そんな多くの経験を積ませてくれたJAEを離れた理由は何だったのでしょうか。


今思うと、当時のJAEの特性は“集団のアクションで魅せれる”ってことだと思うんです。代わり
に、個々のスタントマンをフィーチャーすることってそこまで無かったんですよね。簡潔な言葉で言うなら……ここで僕は目立てないなって(笑)!


そんなことを感じ始めた頃に、日本のアルファスタントがニュージーランドで撮影していた『パワーレンジャー』の様子が耳に入って来たんです。あの作品って、カメラも徹底してスタントマンをフォローして撮ってくれるし、評価もしてくれる。そういう場所なら、自分自身のプロモーションビデオにもなるようなスタントが出来ると思ったんです。「この大勢の中のコレが僕です!」じゃなくて「この画面一杯に撮られてるスタントが僕です!」って。当初はJAEの中が全てだったから分かりませんでしたが、外の世界を知って一気に視野が広がりました。


―――JAEを辞めたあとはフリーランスになったのでしょうか?


いえ、JAEの先輩を通してアルファスタントの方と繋げていただけたので、内定を貰うのに近い形でJAEを辞めて直ぐに、アルファスタントに所属しました。

 


―――また新たなチームに入る、ということに不安は無かったのでしょうか?


めちゃくちゃありましたね~(苦笑)!やっていけるのかどうかもそうですが、アルファスタントはワイヤーアクションの技術も抜きん出て高かったので、今までと全く違う環境についていけるのか不安でした。だから入った当初は、言われたことを一生懸命やるしかなかった。先輩たちから教わることも、「誰もやったことのないことは教えないし、誰かが先にやれたことなら自分も必ず出来る」って、先輩も自分も信じてやってました。

 


――アルファスタントに所属した2年目には、既に海外作品に参加されたんですね。


はい、アメリカで撮影した『KAMEN RIDER DRAGON KNIGHT(2008年・全40話)』ですね。

アルファスタントは当時から激しいスタントを売りにしていたチームでしたし、僕は僕で凄いスタントで死ねるなら本望!って本気で思っていた人間なので(苦笑)、とにかく大掛かりな激しいスタントをやり続けていたんですが……3年目、4年目あたりから身体のいたる所が悲鳴をあげはじめて(苦笑)。365日ムチ打ち状態だわ、ヘルニアにはなるわで、無痛で過ごせる日が滅多にないような満身創痍が続いたんです。その時はさすがに「僕のスタントマン寿命がもう来たのかな」とも思いました。

 


―――その後、アルファスタントから出て次に向かう転機は、何がきっかけだったのでしょうか?


XMA(エクストリームマーシャルアーツ)との出逢いです。
最近では、XMAから派手な技だけを抜き出したトリッキングというジャンルの方も世界的に定着してきていますよね。
アルファスタントに所属している最中から、XMAに惹かれて自分でチームを持っていたりはしていました。そんな時に参加した『KAMEN RIDER DRAGON KNIGHT』で共演していたスタントマンや俳優たちが、当時のXMAのチャンピオンだったんですね。なので、彼らに撮影の合間に教えて貰ったり、現地で道場に通わせて貰ったりしてました。
で、僕、撮影の最後の最後に、大怪我をしてしまったんです(苦笑)。余りにも大怪我だったので、そのままリハビリのために半年アメリカに残ることにしたんです。そしてリハビリをしながら、XMAを基礎の基礎から学ばせて貰いました。怪我の功名かも知れませんが、そのリハビリを兼ねた学びの時間があったからこそ、僕は基礎から完全な形でXMAを日本に持ち帰れたんだと思います。
帰国後、XMAをアクションの一部ではなく、独立した文化として育てていきたいと思って、アルファスタントを辞めることにしました。

 


―――XMAを主軸としたチームの運営は順調にいったのでしょうか?


最初は自分の仕事に繋がれば良いな、位の感覚だったんですが、徐々に仲間が集まってきてくれたんですね。一緒にやりたいと。そこでチームを立ち上げ大会を主催したりと活動を広げていったんです。正直、大会を開いたところでXMA人口自体が少ないし、ある程度のスキルを持った若い人たちが主に参加するものなので、絶対数が少ない中で会費だけで運営するのは難しいものでした。僕を信じて付いて来てくれている人たちに、充分なギャランティも払えず、このままの状態で続けていても、この人たちを幸せにできないんじゃないかと随分悩みました。
そこから、ビジネスとしての視点も持つようになりました。そこで先ずやるべきだと考えたのが、“スターを生む”ことです。パフォーマンスもすれば撮影にも参加する、とにかくバリバリ仕事をして、人の目に触れる場所に僕自らが出て行こうと。
そのタイミングで、運良く『仮面ライダーウィザード』のスーツアクターのお話をいただいたんです。


―――その後、パフォーマンスや大会運営だけではない広い視野をもってお仕事を展開することになり、ビジネスについても真剣に学ばれたそうですね。


“食”について学んだことは視点を変える大きな転機になりましたね。そもそも、僕たちの仕事は身体が資本です。プロテイン(タンパク質)も必要だし。長くプレイヤーを続ける為には気を遣い続けないといけないですよね。それで一度、食にアンテナを広げて、深く勉強してみようと思ったんです。結果、食に関したことだけ留まらない、多くのことを知ることができました。
例えば、僕たちが日々得ている情報って、自分たちで選んでいるようでそうじゃないんですよ。情報をコントロールしている人間がいて、その人たちにとって都合の良い情報を掴まされるようになってるんですよね。なので、何かを「打ち破って変えたい」と思った時には、自分の居る小さな水槽を飛び出して、外で正しい情報を得て、外から水槽を壊す必要があるんだと感じました。食を学んだ結果、政治含めた世の中を知ったって感じです(笑)。

 


―――その間も自らも現場には立ち続けていたわけですが、何がきっかけで“モーションアクター”の仕事が大きな柱になっていったのでしょうか。


経験の浅い頃は、辛い仕事っていうイメージだったと思います、なかなかOKも出ないし(苦笑)!でも、コミュ障気味の僕には、汎用モーション(※1)の撮影って独り現場が多いし好きだったんですよ。「常に敵は自分自身!」って感じで(笑)。他の撮影でみんなと絡まないといけないのが苦手だった僕には心地良かったんでしょうね。カットシーン(※2)を撮る時は、他の役者さんと演ることも多いんですけど……周りの人たちがすごくキラキラして見えるんですよ~(苦笑)!僕はアクションマンだと自分で認識しているし、他は“役者さん”なわけです。「台詞は流暢だし、芝居が上手くて、キメも格好良くて凄いな!!対してオレは何も出来ないな~……」って。なので、このモーションキャプチャーの業界自体も僕には合ってないんだと勝手に思っていました。
ある時、オペレーターの方が「え?杉口さん気付いてないんですか?杉口さんの動きって全く癖が無いんですよ。それって、モーションキャプチャーの世界ではすごく需要のあることなんですよ!」って言ってくれたんです。それまで僕は自分のことを、“個性が無い”とか“面白みに欠けて詰め跡が残せない”って思っていたんですが、逆に徹底的に個性を消すことが、この世界では良しとされる場面があるんだ!!って。そこから一気にモーションキャプチャーのお仕事に惹かれ始めました。


(※1)汎用(はんよう)モーション……主人公を走らせたり、ジャンプさせたり、プレイヤーが操作する場面での実機モーション。
(※2)カットシーン……操作しなくても映画のように勝手に物語が進む、お芝居がメインとなったシーン。


杉口秀樹のモーションの精密さには、時々開いた口が塞がらなくなる。
どんなに激しい技を繰り出そうとも、まるでプログラミングをされたような正確さで、所定の位置、所定のポーズに戻ってくる。クライアントの要望以上のクオリティで、尋常じゃなく高い再現性をもって動き続ける。それは、もはや職人の域だ。
ジャンプの高さから、着地の位置まで、数センチ単位の調整をやってのける程に自分の四肢を支配下に置くプレイヤーは、そう簡単には見つからない。

 


―――汎用モーションで特に留意している、こだわりは何でしょうか?


連続で動いてもブレず、導線通りに動けて、演技の最初と最後は寸分変わらぬ場所に帰って来て、何度でも再現性を持たせられる、ってことですね。気持ちで演じてしまうタイプの人は、生の感情で演じるから毎回動きが変わってしまいますからね。カットシーンではプラスに働きますが、汎用シーンでは再現性を持つことがとても重要なんです。

 


―――モーションアクターとして独りでの活動ではなく、会社にした理由は?


暫く……5年くらいは個人で仕事をしていたんですよね。そしたら、癖が無い動きが出来る上に、極端なアクロバットも出来るアクターとして認識して貰えるようになって、それなりにあちこちから仕事をいただけるようになって来たんです。まぁ……アクロバットも全く無い乙女ゲームのイケメンキャラなんかも演らせて貰ってましたけどね。タイトルは秘密です♡その頃から「会社にしないんですか?」っていう言葉もクライアントさんから言われ始めたんですよね。「そっか~……会社か~」って漠然と考え始めたタイミングで来たのが……コロナですよ(苦笑)!!
当時主催していた『EnbuDo〜演武道〜』というチーム(現在は村岡友憲が代表として運営)はライブパフォーマンスを活動の中心にしていたので……そりゃ一気に仕事が無くなりましたよね(苦笑)!

だんだんメンバーのもモチベーションも下がって、周囲では仕事を辞めて田舎に帰る人なんかも出始めて。「このままじゃ、僕を慕って集まってくれた人たちがここに居れなくなる!」って思ったんです。

じゃあ何が出来るかって考えた時に、他に活躍の場所を作ればいいや!って考えに至り、リスクは承知の上でコロナ禍での会社設立に踏み切ったんです。


―――リーダーとしての意地を感じます。
意地っすね、完全に(笑)!僕がこのメンバーが好きで好きで堪らないんですよ、簡単に言ってしまえば(笑)。このメンバーと一緒に居れるなら、会社でも何でもやりたい!!
と。根源はそれだけなんです。
モーションアクターのお仕事って、周知の問題もあるかも知れませんが、やりたい人がとても少ないんです。大多数の役者、ダンサー、アクションパフォーマーなどの“表現者”と呼ばれる人たちは、自分を見て評価して欲しいと思う人たちだと思うんです。それが最大の承認欲求と言っても良いかもしれませんよね。


一方、モーションアクターって“裏”にならなきゃいけないんです。

実際の姿は全く表に出ないわけですからね。だから、表現者としての最大の承認欲求は満たされない代わりに、多めの対価を頂ける仕事なんです。モーションアクターの仕事なら、直接自分に拍手はないかも知れないけど、メンバーがやりたい動きや表現に挑戦して、その実力を遺憾なく発揮しながらも、生活も成り立ちます。それでモーションキャプチャーの世界に特化した表現者のための場所、『株式会社モーションアクター』を作りました。

 


―――株式会社モーションアクターという直球の社名を選んだ理由はなんですか?


ひとつは、覚悟の証明(笑)!
もうひとつの理由は、クリエイターさんに寄り添いたいという気持ちの証明です。
芝居もダンスもして、モーションアクターの仕事もします!っていう人たちが所属してる会社は他にもありますが、モーションに完全に特化して、研究し、クライアントのニーズに応えるべく活動していくって会社って、いまだ殆ど無いんですよ。

なので、まずクリエーターさんたちに寄り添える会社であろうと。多くの役者さんは自己表現するのがもちろん正解だし、それが仕事です。ただ、時としてクリエーターさん側からすると、明確な欲しい素材を頂けないというジレンマの状況にも繋がってしまいます。なら僕たちは、彼らが求めているものを確実に提供できる会社でありたいな、と考えたんです。


―――もはや研究所みたいだな、とお話を聞きながら感じ始めています(笑)。


今さら全ての話しをひっくり返すような発言しても良いですか(苦笑)??

 


―――え!?何ですか!?


『株式会社モーションアクター』って名前を付けていますが、だからといってモーションの仕事だけをやっていこうとは考えていないんです(笑)。

 

 


―――今までのインタビューは何だったんですか(笑)!!


(笑)。僕のビジネスでは、“人の動き”に関することなら何をやっても良いと思っています。

“モーション”イコール“人の動き全て”っていう考えですね。何だったら、近い将来メタバースの世界が一般的なものになると思うんです。そうなったら、一般ユーザー全員がモーションアクター化すると言っても過言ではないですよね。

そんな新時代においても、我々は、今の時代から培った経験と研究をもとに、一般の人にもモーションを指導できる先駆者であれると思うんです。
このインタビュー当日、株式会社モーションアクターの他のメンバーも同席してくれており、杉口が席を外したタイミングで、普段の彼の様子を聞くとこんな答えが返って来た。
「こんなに心がブレない人は他に知らない」と。
確かにそうだ。筆者も杉口秀樹という人間を知って長いが、人を誹謗してる瞬間どころか、悲観的な発言をしている場面にも出逢ったことがない。どんな状況だろうと、まるごと楽しんでいるのが杉口だ。
その柔軟かつブレない自分軸は一体どうやって出来たのか、それを最後に訊いてみた。


これもJAE時代の先輩、喜多川さんに教わったのですが、「怒るという行為は、殆どの場合自分が悪いわけではなくて、外部からの要因を受けて起きる。自分は悪くないのに、人のせいで自分の気分を害されるのって悔しくないか?損だろ」って。それを聞いてハッとしましたね。

他人の存在によっていちいち自分がブレるのって悔しいし、第一人としてダサいなって。その視点を教えて貰ってから、自分は自分、他人は他人って分けて考えられるようになり、外からの影響を受けることが無くなりましたね。


もうひとつは、食について学んでいた時に教わった「食事は何を食べても良い。何を食べるかより、誰と食べるか。」っていう言葉です。刺さりましたね。僕に置き換えると、何して遊ぶかより、誰と遊ぶか。どこに旅行に行くかよりも、誰と行くか。何の仕事をするかより、誰と仕事をするか。どんな夢を叶えるか、よりも、誰と夢を叶えるか、なんですよね(笑)。良い仕事をして、誰と歓喜のハイタッチを交わすのか……結局辿り着くのは、人なんですよね。今、一緒に居る人たちと夢を叶えることが出来るなら、ぶっちゃけモーションキャプチャーのお仕事じゃなくても良いのかも知れません。


大切な仲間たちと一緒に、面白い景色を見ていたい。


それだけが僕の変わらない望みなんです。

 

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